レコード水越写真館

2016年01月

https://soundcloud.com/recordmizukoshi/takashi-mizukoshi-drone-pademo

今日は気分転換に一人称を"あたし"にしてみる。

あたしは自由な気持ちにさせてくれるものが好きだ。
あたしは音楽が好きだ。
ポップスも好きだしテクノも好きだ。
そういいつつも色んな音楽を所有しすぎて
沢山の未聴音源を常に気にしすぎていて
「さあ好きな曲を聴こう」という時には
はて なにが聴きたいのだろう
いつも分からなくなってしまう。

音楽がかかっていると頭が働かなくなることが多い。
頭が働かなくなってしまうような曲でも
だからといってそれが嫌いとか悪いということにはならない。
けれども考えなければならないことが多い身としては
思考を停止させてばかりではいられない。
無音でいるか、思考を停止させない音をかけるか。

耳あたりのいいような普通のポップスの構造はたかがしれている。
特に複雑なものを求めているわけではないが
音を聴くからには窮屈な気持ちにはなりたくない。
窮屈な心境から脱したくて音楽を流そうとしてるようなものだから
杓子定規的に小手先でデザインされた音楽は
惚れ惚れするような完成度があったとしても
窮屈感があったら
やっぱりあたしには意味がない。

サウンドクラウドに制作途中のデモをアップした。
あたしとしてはテクノのつもり。
あたしにとってよつうちな曲はテクノ的ではない。
よつうちならそれはとりあえずハウスかディスコ。
まちがっててもあたしにとってはそうだ。
よつうちだとしても
それ以外の要素とのズレを楽しむためのソレなら
テクノかもしれない。
テクノ音楽の肝の一つはズレだと思っている。
だからミニマルミュージックもテクノ的だ。
テクノがミニマルミュージック的なのかもしれないが
まあどっちだっていい。
あざとい構成でできたお約束が多いテクノは
あたしにとってはテクノ的ではない。
 
  異質なのに強く身体に訴えるものがある
  ポップスのしきたりを無視した野蛮かつピュアな音塊

テクノというのならそのように
主流からズレているものであってほしいという勝手な願い。
完成度が高いテクノはテクノ的というよりかポップス的だ。

冒頭のリンク先ページで聴けるこの曲はまだ作りかけで
これからもう少しポップス的にしようかと思っているけれど
今のところはテクノ的だ。
未完成感そのものもまたズレとして楽しめる。

自曲の解説をすることというのは野暮なものだけれど
あえて少し。
聴きどころはオルガンドローンなウワモノ部。
長目に鳴らされる2本の直線(時折ベンドさせてるが)。
それをコードというのなら
そのコードの変化の流れと変わるタイミング。
小節の固定的な区切りから解放した進行なので
普通の音楽に飽き飽きしてる
(あたしのような)人にはきっと面白い。
全く逸脱を求めてない人には
  この作者はリズム音痴だろう
と思うかもしれない。
バックのリズム自体も
  これじゃ全然ノレない
と思われるかもしれない。
あたしとしては
体動きまくっちゃう系の横ノリ重層グルーヴ
があると思っている。
サルサに近い。
複雑なパターンなのであえてそのままずっとループさせている。
それでもループとループの合間の間隔は
ランダムに乱数を交えているからそこに揺らぎが出てる。
加えて低域にプリープ音的なベースパーカッションが
ズレたり合ったりなノリで揺らぎを増幅させていて
更にドローンのフリーなタイミングでのコードチェンジで
かなり通常の時間感覚から解放されるように聴こえるはず。
そんな作りにしている。
人それぞれ快感原則は違うだろうけど
あたしの快感原則に沿ったテクノをつくると
こんな感じになる。
このくらいの程いい自由感なら
思考の妨げにもならなず気持ちがいい。


最近猫をスケッチばかりしていますが
猫は飼ってません。
あたしの猫ドローイングはなかなか好評です。
IMG_8917

余白がいい と言われます。
ドローイングは制作に時間のかかる本格的な絵画と比べると
短時間でできるわりには人に魅力が伝わりやすかったりします。
単純に気持いい と。

未完成なものの良さ ということを考えると
音楽の楽曲においてはまだ
ドローイングやデッサンやスケッチのような音源を
ありがたく単純に楽しまれる風潮は目立ってないと思うのだけど
これからの音楽の聴かれ方・見せ方にとって
かなり重要なことだとあたしは考えている。
 
作り込みすぎないことの豊かさ

そこと評価や人気を得る為の完成度と
どちらが大事だろうか。









 1950年から1970年くらいのアメリカのモダンジャズのアルバムを聴こうと思ったとする。

イントロ。
かっこいい。
ハーモニーも旋律もリズムもビシっときまってる。
ジャズっていいな
と素直に思える。

譜面通りのイントロ(テーマ)が終わり
管楽器やピアノやベース・ドラム等のソロ回しの時間になると
なんとも退屈な雰囲気が続いて、次の曲に飛ばそうと思う。
さあソロ合戦を聴くべし
という時間が苦痛なのだ。
曲を変えたとて結局どの曲も同じ構成で
6年くらいそのアルバムは再生しなくなる。

6年が経ち、楽しんで聴けるかどうかまたチャレンジしてみる。
でも同じ。
どうしてもソロ回しの時間が音楽的に不毛に感じられてしまう。
その時代にその場で生で聴いているならエキサイティングかもしれない。
又はアナログレコードで
極上のスピーカーシステムで
爆音リスニングすれば感動するかもしれない。

でもそうではないから。 

もし
全てのバッキング部が
もっと音楽的にアレンジされているか
アレンジされたかのようなバッキングだったりで
器として面白い形をしていたら
ソロ演奏者の演奏の粋さや上手さを
素直に堪能できるだろうと思う。

こう弾いときゃいいでしょ的なウォーキングベースのラインが
その曲ならではの個性を消す役割があるかのように感じて
未来の音楽ファンの私にはつまらない。 

伴奏がつまらなくても
例えば2管で同じ線や違う線で旋律が絡まるのなら
その様子そのものが
音が重なる楽しさの本質に近いから充分に
エキサイティングだ
しかし所謂"モロジャズ"では基本一人ずつソロはまわされる。 
そういう形式でない録音を知らないだけかもしれないし
ちゃんと聴けてないだけかもしれないが
そこを売りにしてたようなものは少数だといっていいと思う。

そんな調子でジャズに分不相応なPOP性を求めると
聴けるものは限られてきてしまう。
そういう風に聴くべきものではないみたい。 


私がジャズの偉人であるセロニアス・モンクの音楽を聴き始めたのは
19歳の頃。
住んでいたアパートの近所の図書館で
たまたまThe London Collectionというアルバムをかりた。
そのアルバムが気に入って一つの季節中
The London Collectionを録音したテープをよく聴いた。
全然飽きなかった。

その後、沢山のジャズアルバムをかりたり買ったりして聴こうとしたが
若いうちからちゃんと本心から気に入ってのめりこめたのは
モンクとローランド・カークとダラー・ブランド(アブドゥラ・イブラヒム)くらい。
その3人の音楽の存在感は
ジャズというよりもポピュラーミュージックに近接している。
口笛で吹きたくなる人懐っこいメロディ。
ジャズの中でも彼らの音楽しか好んでない場合
ジャズが好きとはちょっと言い難いものがある。


1971年作
The London Collectionはモンクのアルバムキャリアの中では最後のスタジオ録音
今日(2016年1月8日)は久しぶりに
YouTubeでではあるけど
The London Collectionをずっと流してた。
25年前と変わらず飽きない。
このまま春までエンドレスリピートでもいいかもしれないくらい。
なぜだろうか。
モンクのアルバムでも他のアルバムなら何度もリピートしたいとは思わない。
同じピアノソロのアルバム
セロニアス・ヒムセルフや
アローン・イン・サンフランシスコや
ソロ・モンクとは
なにかがちがう。 

・スイング感や即興フレーズが希薄
・テンポが湯にのぼせてるかのようにのんびり
・スタジオの部屋鳴りの反響具合がキラキラしていて他の録音にはないステレオ感

という要素がある
から延々聴けるのか?

スピード感に欠け
インプロの飛躍の面白みが薄いからイイ だなんて
まるで 
ジャズ的じゃないから好き 
って言ってるも同然だ。

そうなのかもしれない。

インプロに興味がないことを恥じるのはナンセンスだ。
ジャズだから高度と捉えることもナンセンス。
摂取したいのは純度の高いメロディやハーモニーやリズム
そして自由なフィーリング。
インプロヴィゼーションは自由の象徴なようでいて
実際は閃きとはほど遠く
不自由感を感じることの方が多い。
聴きたくないなら無理に聴くこともない。 


ジャズという括りなんて意味もなくなるくらいの
ジャズコンポーザーとしてのプライドとは無縁の
さりげなく誰かが鼻歌で唄ってるフォークミュージック
くらいな温度な演奏のこの録音を
私はただただ心地よく聴いている。

まちがえてるところもわかる。
迷いを感じてるのかなって箇所もある。
その等身大の空気がとても落ち着く。
気まま万歳。

ジャズだろうが
ジャズでなかろうが
ジャズ的だろうが
ジャズ的でなかろうが
音楽を心底心地よく感じられることそのものが
至福なように感じる。



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そして
そんなジャズなのかなんなのかわからないような音楽の作り手・鳴らし手の主であるモンクが
1940年代のジャズのビーバップ革命の中心人物の1人として認知もされ
20世紀のジャズ界の誰よりも独特な曲を沢山産み
それがしっかりと歴史にも刻まれ
正統に評価されていることの奇跡がまた味わい深いのだが
レコードの音はあくまでその事実とは無関係に
のほほんとした軽い響きであること

それがたまらなく素敵だ。


 




 

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